持論
「持論ですが」と前置きして話すこと、ありますよね。今日はその持論について、どうやって作られて、どう変わっていくのか、そして人とぶつかったときにどうするのかを考えてみました。
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持論というテーマ
おはようございます。
今日もコーヒーを飲みながら、カップ一杯分の学びをお届けします。
今日は「持論」というテーマでお話ししたいと思います。
手に持つの「持つ」と、議論の「論」と書いて、持論です。
よく話の前置きで「持論ですが」とか「私はこういう持論を持っていて」というフレーズが使われることがあると思います。
今回はこの持論について、ちょっと考えてみたいなと思っています。
持論はどう作られるのか
まず大前提として、持論というのは皆さんそれなりに確かな信頼を置いている論理だと思うんですね。
それはきっと経験に基づいていたり、もしくは信頼している人に教わって定着していく。
そういう形で持論というものができていくのが、一般的なのかなと思っています。
その持論なんですけど、当然ながら一人一人異なります。
なので時に衝突することもあるんですよね。
本当は「持っている論」なんだから、各々そうなんだねで終わればいいんですけど、皆、自分の持論は絶対的に正しいと信じ込んでいる。
だから相違があると、若干、もしくはかなりのストレスにもなり得る部分だと僕は思っています。
大前提として、相手の持論を認めるというスタンス。
相手の持論は相手のものであり、自分の持論は自分のもの。
何か共同作業をするわけでないなら、お互い不可侵でいいのかなと思うんです。
持論はどう変わるのか
そんなに強い持論というものも、今までも自分の中で変化してきましたし、ずっと同じ持論を持ち続けているわけではありません。
きっと変化なりアップデートがあるはずなんですね。
この持論が変わるのって、一体どういうケースなんだろうと考えてみました。
ひとつは経験に基づいている場合です。
これには長年の経験に基づく場合と、根源的な体験に基づく場合の2つがあると思っていて。
長年の経験というのは、同じような事例や事象をずっと長い間体験し続けて、「もうこれはこういうものだ」と定着したもの。
一方で根源的な体験というのは、1回もしくは数回の強い成功体験、もしくは挫折や恐怖体験があって、もう積極的にやるか、めちゃめちゃ距離を置きたいか。
「これで痛い目を見たから、俺はもうやらない」みたいなスタンスですね。
それ以外にも、外部からのインプットというのがあると思うんです。
信頼している先輩や親に納得感のある説明をされて「確かにそういうもんだな」と思ったり、本や名著、最近だと動画ですごく経験のある方の話を見て「確かにな」と思ったり。
でもよく考えたら、これも体験のうちに分類できるかなと思って。
結局のところ、持論が変わるのはやっぱり経験に基づいているんだなと、改めて思いました。
持論の衝突の中で
なんでこういう話をしているかというと、現在、自分自身が持論の衝突みたいなところにいまして。
詳しくは話さないんですけど、そういう状況にあるんですね。
持論って、人の価値観みたいなところに近いものだと思うんです。
それをもっと具体的な論に落とし込んだものというか。
そういう部分ですれ違いがある相手と、一緒に物事を進めようとなったとき、なかなか難しいところがあるなと感じていて。
お互い尊重しなければならないのはもちろんなんですけど、ちょっと今そこで思い悩んでいるところです。
ただ、自分自身の持論が確実に正確で正しいという保証もないわけで、それだけを盲目的に信じて、疑いの余地を持たないのも絶対嫌だなと思っていて。
持論はもちろん変わるものだし、人それぞれ違うし、何が正しいかなんて、もしかしたらないのかもしれない。
そういうことを認識した上で、この問題に向き合っていきたいなと思っています。
皆さんは何か持論を持たれていますか。
どんな些細なことでも構わないので、よかったらコメントで教えてください。
それではコーヒーが冷めないうちに、失礼いたします。
まとめ
- 持論は経験や信頼する人からのインプットによって、自然と形作られていきます。
- 持論が変わるのは、長年の積み重ねか、強い成功・挫折体験か、結局は経験に基づくものです。
- 自分の持論が絶対に正しい保証はない。そう認めた上で、相手の持論と向き合っていきたいと思っています。